魚吹八幡神社武神祭
北条節句祭り声合わせ
平成21年北条節句祭り
平成21年高砂神社国恩祭

9月22日大鳥屋台入魂式
9月22日地屋台完成式
10月4日北之町屋台入魂式
中之丁屋台狭間新調
西蒲田屋台狭間新調
平成21年 西蒲田屋台狭間新調 姫路市広畑区蒲田 蒲田神社

 屋台新調2年目を迎えた西蒲田では、平成21年の秋祭りに向けて狭間を新調し、脇棒受けに龍の彫刻を取り付けた。狭間の材質は入手が極めて困難といわれる神代檜で、褐色がかった独特の風合いが、欅で組まれた斗組や正角、井筒と調和し屋台の軒回りを格調高く演出している。神代檜の神代とは、生長した木が地滑りや倒木などによって沼地に沈み込み、長い年月の経過とともに木の成分と吸収した土壌の成分が混ざり合って独特の灰褐色に変化した木のことで、神代檜の他に神代杉、神代欅などがある。いずれも水分の多い粘土質の土壌に埋もれ、木が腐らずに残るということが条件で、意図して伐採できるものではなく、地中から偶然的に発見されることがほとんどで、材木商の間でも珍品中の珍品といわれるほど貴重な材である。彫刻は、露盤、正角彫刻と共に二代目・中山龍雲氏の作である。
 


西蒲田屋台棟 平成20年に新調した屋台に狭間が取り付けられた


「菅原道真公−遊歩の場」


「応神天皇−蒲田の地にて御駐輦の場」


「忠臣蔵−赤穂義士吉良邸討入りの場」


「本能寺の変−森蘭丸の勇戦」
 

菅原道真公−遊歩の場
 菅原道真は、承和12年(845)に、学者・政治家である菅原是善の三男として生まれた。11歳で漢詩を創作して学問の才能を発揮し、26歳で方略試に合格、33歳で文章博士という学者の最高位を得た。その後、藤原時平と並んで昇進を重ね、昌泰2年(899)に時平は左大臣、道真は右大臣となり、学者として異例の出世を果たした。しかし藤原氏の妬みにより、延喜元年(901)、道真は時平の讒言によって九州太宰府に左遷され、無実の罪が晴れぬまま延喜3年2月、配所で59歳の生涯を閉じた。
 道真の死後、都では天変地異が起こり、藤原時平をはじめ廷臣の変死が相次いだ。人々の間では道真公の祟りと信じられ、これを鎮めるために道真公を祀ったのが天満宮の始まりといわれる。
 この場面は牛に跨り散策する道真公が、道行く人々に教えを説く様子を表しており、道真公と牛にまつわる縁起は、道真公が誕生した承和12年6月25日が乙丑年の丑月、丑日で、さらに丑刻に生まれたことから、牛との御縁が深く、牛をこよなく愛したことから牛は天神さまの使いとされている。

応神天皇−蒲田の地にて御駐輦の場
 蒲田の地に伝わる「応神天皇播磨巡幸」の故事を題材にした場面で、蒲田神社創建の縁起となった物語である。「播磨国風土記」によると、播磨の地を巡幸していた応神天皇は、景観の美しい当地をたいそうお気に召され、狩りを楽しみ河川で手をすすがれたという。このことから、この川を手沼川と名付けたとあり、これが現在の夢前川と伝えられている。後に、誉田天皇の聖徳を慕う住民が社殿を創建し、天皇を奉祀したのが蒲田神社の始まりといい、蒲田、八幡の地名も八幡神である応神天皇に由来している。御駐輦(ごちゅうれん)とは、天皇が行幸の途中に乗り物をとめられ、その地に御滞在されることをいう。

忠臣蔵−赤穂義士吉良邸討入りの場
 12月14日の話題と言えば、赤穂四十七士が、主君である浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)の仇である吉良上野介(きらこうずけのすけ)へ討ち入った「忠臣蔵」が有名である。忠臣蔵の物語は、播州赤穂藩主であった浅野内匠頭が江戸城
松の廊下で吉良上野介に対する刃傷に始まり、これに激怒した五代将軍徳川綱吉は、浅野内匠頭に即日切腹の沙汰を言い渡す。喧嘩両成敗のはずが内匠頭だけに処分が下され、吉良には何のお咎めがなかった事が遺恨を生み、赤穂藩の家老を務めていた大石内蔵助(おおいしくらのすけ)は、主君の切腹後、内蔵助を中心にお家の再興を望むも叶わず、討ち入りに向けて浪士達は念入りな計画を立てる。主君が桜舞い散る庭で詠んだ春の名残から1年9ヶ月、元禄15年(1702)12月14日夜から浪士たちは身支度を整え、明けて15日の4時に吉良邸へ討ち入った。無事に亡君の無念を為し遂げた一行は、内匠頭が眠る高輪の泉岳寺へ向う。3ヶ月後に浪士達は切腹する事になるが、忠義の志を果たした彼らは大いに称えられ、後々の世まで人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』や歌舞伎などによって脚色されながら語り継がれている。

本能寺の変−森蘭丸の勇戦
 織田信長の天下統一も目前に迫っていた。信長は明智光秀に毛利氏と戦う羽柴秀吉への加勢を命じた。しかし光秀は中国征伐と見せかけ「敵は本能寺にあり」と下知し、一万五千の軍勢を率いて、信長の宿所・京都四条西洞院本能寺に向かった。天正10年(
1582)6月2日未明、物音に目覚めた信長は近習に様子を探らせた。すると「本能寺は軍勢に囲まれており、紋は桔梗(明智光秀の家紋)である」と報告され、光秀が謀反に及んだと知る。信長は「是非に及ばず」と言い、弓を持ち表で戦ったが弦が切れ、槍を取って敵を突き伏せた。しかし殺到する兵から槍傷を受け応戦を断念。女衆に逃げるよう指示して奥に籠もり、小姓の森欄丸に火を放たせた。障子越しに信長の影を見た明智方の安田作兵衛は信長めがけて一気に攻めかけたが、森蘭丸は主君を守るべく長柄の槍で勇戦。作兵衛の腹を突いたが、作兵衛に槍をつかみ取られ、奮戦むなしく18歳の若さで本能寺と共にこの世を去った。信長も自刀したと言われるが、その遺骸は発見されなかったという。
 


 

 


 

神代檜の色味が狭間彫刻に独特の深みを出している。光の当たり方で微妙に色合いが変化して見える

 

正角「龍と獏」


 


正角(屋台正面)平成20年撮影
 

 

正角(屋台後面)平成21年撮影
 

脇棒受け「阿吽の龍」 平成21年新調



脇棒受け全景 脇棒受け彫刻新調御披露目にて(平成21年5月16日)


正面左


正面右


後面左


後面右

尾州檜の木目に欅の彫刻が冴える
 

露盤彫刻「四獣神」 平成20年新調



「朱雀」


「青龍」
 

 



「玄武」


「白虎」
 


擬宝珠と露盤 擬宝珠は伏鉢に波模様が輝く
 

天井彫刻



 

 


 随所の彫刻にこだわりを魅せる西蒲田屋台のさらなる特徴は、天井に施された龍の彫刻である。天蓋に彫刻された龍にはガラス目が施され、屋台の内陣を見据える鋭い眼光が見事である。折上部には四面に六頭の龍が彫刻され、合計七頭の龍が天井から屋台を守護している。彫刻材はすべて欅で、重厚感のある彫刻は、西蒲田屋台自慢の逸品である。

 平成22年には漆塗り錺装飾が完成する西蒲田屋台。完成式が楽しみな屋台である。


西蒲田屋台の詳細はこちらのサイトも合わせてご覧下さい


六代目西蒲田屋台のサイト
 

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